会社情報

創業者の想い

会計パッケージ業界の発展に貢献する!と言う想い

創業1981年、渋谷は道玄坂の中ほどにあった、「計算センター」を買い取ることで、アイ・シー・エス通商の先代、中山 守は独立を果たしました。当時、税理士さんが、会計コンピュータを導入するには、あまりに高額だったので、コンピュータの時間貸しともいえる、持ち込みデータ(テープにパンチしたもの)をコンピュータ処理するという商売がありました。 根っからの営業マンだった中山は、その現状に満足せず、すぐ大手電機メーカーの販売代理店となると、自らセールスマンとして飛び込み営業にあけくれる日々でした。 当時は、飛び込みから商談が決まると、お客様の要望に合わせてオーダーメイドでソフトの開発を行っていました。 そうしたことを繰り返したのち、これでは、儲からないし、会社にノウハウも残らない。そこで、前職時代の元上司のお誘いを受け、会計専用機メーカーの販売代理店となることで、財務会計システムに特化した戦略に切り替えました。 その結果、経理業務の機械化という波にも乗り、順調に、売上と顧客を増やしていきました。 しかし、そうした中でも、お客様の細かい要望に応えられない情に満足のいかなかった中山は、本部の反対を押し切り、自社で開発部隊を抱え、主に、中堅企業の管理会計のオーダーメイドに注力しました。 その中で、部門別管理会計システム、借入金管理システム、資金繰りシステムなど、中堅中小企業の現場で必要とされていた会計サブモジュールを次々に発表していきます。 ピークには25名のSEを抱え、銀行のオンライン振込システムから、自社用の簡易開発言語AGLまで、多くの会計回りのパッケージの金型を作成したことで、会計パッケージ業界の発展に貢献しました。

日本に入ったばかりのPCを、見たことから独立を決意

そもそも、日本NCRの営業部長として、順調なキャリアを歩んでいた中山が、突然ベンチャーを興すきっかけとなった事件があります。1981年のある日、本郷の東大病院に近いお得意さんのM調剤薬局を訪ねた時のこと。夕方、主人が彼を店につながった自宅部分の応接に招き入れ、見せたいものがあるというのです。それは当時日本では珍しかったライバル社の米国IBM製の組み立てキットのPCでした。 それを見せられ、「約170万」という値段を聞いたとき、驚いて喉が塞がって何も言う事が出来なかったといいます。 性能的に、当時販売していたオフコンと、ほとんど変わらないと直感した。自分が部下を叱咤激励して売っているオフコンが数千万。 勝ち目のない戦で、部下を指揮するのは自分の信念にそむくと思った。それよりも、これは時代の転換点と確信した。「身近なコンピュータの普及のために」といういのが創業のキーワードでした。

NCRという会社は、IBMを創業したトーマス・ジョン・ワトソンを輩出したことでも有名で、総合情報システム企業として最古の部類に入る歴史ある会社です。大前研一の言葉によれば、「世界で初めて営業のプロフェッショナル化に挑戦した会社」であり、NCRは米国最古の研修所を作りました。 そこではマナーや規律、健康管理の重要性などを教えました。製品知識のみならず、ビジネスの理論を徹底的に教育しました。 中山は、その米国NCRの研修所に、27ヶ月連続クォータ(営業目標)達成という実績よって日本より選抜され派遣されます。 クラス全員が米国人の中、たった一人の日本人という環境で、毎晩徹夜して、英語の本にかじりつき、最終日には、「日本からサムライが来た!!」講師からかけられた言葉。そこでの教育が、彼の営業マネジメントの原点となりました。

米国外資系会社仕込みのマネジメントの営業活動

営業面では、米国外資系会社仕込みのマネジメントで、数多くの顧客獲得と、ベンチャーとしては考えられない日本を代表する企業を顧客としてきました。 その理由は2つあります。ひとつは、今ではパワー・ハラスメントにあたるかどうか、スレスレの厳しい管理型営業マネジメントを徹底したことです。 それを証明する都市伝説があります。当時のIT業界の中では、ICSTで営業マンを3年勤めたと言うと、無条件で採用になったり、中には、採用すぐマネージャーに昇格になったという、都市伝説があったほどです。 これは、非常に厳しい営業の基本が仕込まれており、新規顧客開拓という営業でも一番困難な業務を、新しい会社でまかせられても、簡単には根を上げないということや、そのノウハウを取得することに魅力があったからでしょう。 もう一つの理由は、現在では行っておりませんが、当時は、帝国データバンク社の、一定の点数以上の信用度のお客さんのリストを購入し、それに対して、電話・訪問・DMというのを繰り返し実施していました。しかも、「ランチェスター戦略」にのっとり、都内主要部を区ごとに細分化して、それぞれに担当者を付け、しらみつぶしにビルのフロアを回るという手法を取っていました。

創業者 中山守が社員へ伝えたかったこと

そんな中山が、引退するまでに、繰り返し社員に伝えた言葉があります。

『お客様をサポートする為に、常に、売り続けなくてはいけない。』

ある営業マンが、中山に意見を具申したことがありました。「もう少し、顧客のサポートを厚くするべきだ。自分は、販売・営業よりも、サポートの仕事を優先させたいと。」その時に、中山は、顔を真っ赤にして、怒鳴って叫びました。

「君は間違っている。営業職たるあなたが販売活動をしなくてどうする。お客様を大事に思う気持ちが本当にあればこそ、営業が100%真剣に営業活動することが最優先だ。そうして、会社の利益によって、はじめてサポート担当職の社員が継続的に顧客にサービス・サポートすることができる。」

当時のその営業マンがその言葉に納得したかどうか定かではありません。しかし、今では、その真意を我々は理解しています。利益を出し続け、会社が継続していくという、当たり前の大前提がない限り顧客にサービス・サポートを行うことは不可能です。そして、今は、「クレド」によって、我々はこうした趣旨の内容を社員同志で伝えあっています。

現在では、我々は、積極的に顧客管理システムを導入したりすることで、顧客サポートの品質アップに努めています。恐らく、創業者の伝えたかった、ささやき声のお客さんの声に対応し続ければ、お客様が大声をださなくてもすむ、そうしたサービス品質をつくりあげ、維持したいと、今も日々終わりのない挑戦を続けています。

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